暇半桃花鳥’S LOKA!

露悪趣味で見栄っ張り

「慣性の法則」を知らぬものに「地動説」を語る資格はないのだろうか?

就活あんど卒論そっちのけで中島秀人(2008)『社会の中の科学』NHK出版を読んでいいる。

 

同書、pp.45-45で、プトレマイオスが、サモスのアリスタルコスの唱えた地動説を批判した理由について述べられている。プトレマイオスが間然したのは、つぎのような理由からであった。

かつ引用しつつ、かつチャチャをいれつつ、進む行文です(さいきんよんだ、中島敦『李陵』の一文をぱくろうとしたんだけど、なんか、ヘンなかんじになった。)。

 

「彼(暇半注:プトレマイオス)は、星の運動を考える限りでは、地動説でも構わず、むしろ一層簡単だという。」

くわいんさんの、神話体系と科学体系の話をなんとなーく思い起こさせます。が、くわいんさんについてよく覚えてないん。

「彼の批判のポイントは、この説(暇半注:地動説)に従うと、地球が東向きに自転していなければならず、それが問題を引き起こすことだ。地球が自転しているとするならば、時点による地表の運動は非常に速いので、空中にある雲や鳥、謄写された物体は、西に飛ばされるはずである。」

か、かしこい。なんと伶俐なんだ。

「しかし、そのようなことは観察されない。この批判は……」。

 

さて、ここからが、問題。叙述は、このあと、次のように締められる。しかし、そこに、一箇の疑問がある。

「慣性概念のなかった当時としては、当然のことであった。」

 

現代日本人は、大人はものかは、小学生でも地動説くらいは知っている。しかし、慣性の法則は、下手をすると大人ですら知らないこともありうるし、小学生など言わずもがな、である。

それでも、地動説をみな知っている。

(こむずかしい言葉を出すと、認識論における外材主義と内在主義、みたいな話になるんだろうけど、そういうのはよくわからないから、ほおっておく。)

日常生活には、「知らないけど、それで構わない」って場合が多々ある。好個の例は、電子レンジだろう。わたしなどは、ふたがあいて以降の仕組みはほとんどわからない。

「がちゃ」お、わかる。「ぽち」わからん。「うぃーん」わからん。「ちーん」葬式かな?ってのが、まあ、相場だろう。ん?「うぃーん」は分子にマイクロ波を当ててふるわせて、発熱させる?のだっただろうか。ちがうかな。

こういう「まあ、使えるし」的な知識ならば、その過程を、個々人が知っている必要はないように思われる。

しかし、です。つかわない知識、より基礎づけられる知識となるとどうだろうか。こんなことを言い出すと、「だれもかれもなんも知りゃあしねえ」、っていう寂寥たる結果になりそうなのだが、「〔地動説をしっていて〕かつ〔慣性の法則をしらない〕」ことの違和感が払拭できない。「それって、地動説をしってるのか?」と口疾に密めくものがある。

こういった、「使わなけど知っている知識」というのは、すごい謎だ。

「1たす1」について、ぼくは知っているけど、知らない。(数学基礎論のはなしになるんかな。ちょっとだけ、論理回路(?)で足し算を表現するみたいなのやったけど(「ぺあの」とかなんたかとかでてきたような。)まあ、ようわからんかったヌ)。でも、それが「2」であることをつかえる。

リトマス試験紙が酸性化で赤くなる」ことを知っているけど、知らない。ただ、つかわない知識だ。そしてまた、基礎づけることができない(なんで酸化したら赤色になるのか、ぼくはしらない)。こういう場合、わたしは、「酸性化で赤くなるリトマス紙」について、なにをしっているのだろうか。

なにもしらないのだろうか。いや、なにごとかはしっているのではないか?でも……なにを?

 

慣性の法則」を知らぬものに「地動説」を語る資格はないのかもしれない。

でも、「慣性の法則」を知らないことが、「地動説」をしらないことを帰結するのかどうか。

わたしには、まだわからない。きっと、わかることもない。

 

どうしようも、ない。