暇半桃花鳥’S LOKA!

露悪趣味で見栄っ張り

末期的なこの人生というちいさくささやかな矛盾

さいきん、輪廻が苦しみであるということを体諒しつつある。

 

「なんのために?」「いい高校に入るために」

「なんのために?」「いい大学に入るために」

「なんのために?」「いい企業に入るために」

「(フラッシュ!)」「なんのために?」

「なんのために?」「いい家に住むために」

「なんのために?」「いい結婚をするために」

「なんのために?」「こどもと配偶者とでいい家庭をつくるために」

「(ミラクル!)」「誰のために?」

「なんのために?」「孫と遊ぶために」

「なんのために?」「大病した時のために」

「なんのために?」「死ぬためさ」

「(ストロング!)」「この力はあるだろう?」

「なら、いま死んでもいいじゃないの?」「……死ぬのはこわいから今は死ねない」

「目的は達成できるよ?」「過程が大事」

「ウルトラの星がまたたくとき」「あたらしい光が」

「その過程ってのは死を先延ばしにしているだけだよ?」「引き伸ばし方にもいいやり方とわるいやり方がある」

「いいやりかたってのは?」「じぶんが納得できるかどうか」

「納得ってのは、いろいろあった過去の可能性から目を背け、「これしかなかった。これだけだった。」と偽ることだよ?」「納得とは、これからの可能性を作り出し、「こうしてきたのはこのためだったんだ」と過去を肯定していくことだ」

「おとずれぬ」「おとずれる」

「「WOWWOWダイナ!」」

   

ってな感じ。

ぼくは、幸せは納得に集約されるような気がしたんだ。でも、「納得」ってのがどうもうさん臭くて、それはほとんど自己欺瞞に思える。「ああなるしかなかったよ」「あれで満足だよ」と、内にある消えない痕跡、違和感を塗り固めることなんじゃないのか、納得って。

「よくやったよ。結婚もした、子供も大学まで行かせた。孫の顔も見た。」この一言で、じぶんの人生を納得できるのか。

「よくやったよ。60までは生きたし、やりたいこともできる限りやった。思い残すことはない。」。納得できているのか。

「どうせ死ぬんだし」。この一言で、ほんとうに自分の人生を納得できるのか。

 

ぼくは、どうしようもなく死にたくないし、どうしようもなく我儘だし、どうしようもなく強欲だし、どうしようもなく物分かりが悪い。

ぜんぜん納得できそうにないんだ。

 

結婚、家庭、子供、孫。それで納得か?それはほんとうにじぶんと関係のあることなのか。

やりたいことをそれなりにできれば納得か?やりたくないことだらけの人生じゃなかったか?

みんな死ぬから死んでもいいのか。それで納得できるのか。

 

人間は死ぬ。

ぼくは人間だ。

でもなんで僕は死ななければならないんだ。

 

これが、わたしの死に関する三段論法なんじゃないのか。

 

ああ、こんなことを考えていても、なんにもならない。

末期的思考様態だ。

末期的なこの人生だ。

 

この人生いがいに、ぼくには人生はないけれども、

もうこの人生は、

末期的なんだ。

はじめてのことだけれども、

いまここが、末期なんじゃないかって思うんだ。

末期的なこの人生というちいさくささやかな矛盾を

ぼくはいきている。

この苦しみは、もう、末期的なんだ。いきていることの苦しみは末期的なんだ。次またこの苦しみを味わうのは、もう嫌なんだ。これが、末期であらまほしきことである。

 

どうしようも、ない。