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暇半桃花鳥’S LOKA!

露悪趣味で見栄っ張り

営業活動しないと売れないものなんて、必要ないものなんじゃないの?

ほんとうかどうかはわからないが、日常生活の実感としては、この世界は「モノ」にあふれている。

 

廃棄の弁当だってそうだし、車の買い替えるサイクルだってどう考えても早いし、毎年の流行のたびに買いなおす衣服だってそのほとんどが不要だろう。

 

そして、今以上にこの世界が便利になるというのは、もう、技術革新以外にはありえんとおもう。

日々生まれるのは、これまでと大差ないものばかり。

ひとびとの欲望にドラッグをキメさせないと、価値ないものばかり。

もちろん、情報学・コンピュータサイエンス、ロボティクス、ナノテクノロジー再生医療なんかの分野では、目覚ましい技術応用がなされているかもしれないが、そういうのは、勝手に世に出てくる。だから、これからの話には関係ない、とおもう。

 

じゃあ、にもかかわらず、なぜ、「営業」なんて仕事がこの世の中にはあるんだ?

 

これだけ「モノ」が横溢する世の中で、わざわざ売り込まないといけないような、そんなモノなんて、そもそも必要ないような気がする。

 

営業職を今やっている人に聞いてみたい。

「あなたが売っている商品は、ほんとうにこの世界にいまなければならないものですか?」と。

不要なものを売っているとしたら、それは、一種の詐欺師なんじゃないのか。

 

「営業マンは、その人を買ってもらう」とかいう考えがあるみたいだけど、それって、どう考えてもおかしいでしょう。言い出した奴は、そうとう性根が腐ってるに違いない。商人の空誓文とはよくいったものよ。

必要なのは、他の商品との有意な差異で、だれが売るってのは何の関係もない。

ひと(の魅力)で売らなきゃいけないようなモノなんて、いらないものなんじゃないの?

「信用されるのが大切」だって?それ根本的にまちがってるよ。

 

 

もっと、この世界は、効率的にならないのだろうか?

このまえも、なんか新聞屋さんとか通信関係の営業が来たけどさ、もう、基準をつくればいいんではないの?

もう、食品、通信、建築、家具、衣服、などはさ、ぜんぶ統一の比較基準をつくっちゃって、それで売り買いできるようにしようよ。

これで、この世界から、何の価値も生み出さないような活動がずいぶんなくなるとおもうんだけど。

 

人でなく物の質で決まる世の中へ。

 

 

性格や人柄と、その人の能力とか、その人がかかわるモノの性能がさ、相関するみたいな信仰は、もう、やめようよ。どんな性格をしていようが、その人が何ができるか、何をしているかは、関係ない。

 

「脳は、他人の行動や言動を、その人の性格に由来するととらえる傾向があります」(池谷裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』,pp.103-105。「根本的な帰属の誤りfundamental attribution error」)と、いわれている(これは、科学的な事実。ちなみにこの池谷さんの本は、ちょうオヌヌメ。「社会的地位の高い人ほどモラルが欠ける」なんて話も合って、「ああ、わたしは、モラルあるかもなあ」っておもえる(「上流階級バイアス」)。)。

たぶん、わたしたちは、これをさらに拡大して、「いい感じの人が売っているから、いいモノなんだろう」と考える癖があるとおもう(これは、素人談義)。

 

でも、人格と能力は、全く関係ない。

ハイデッガーナチスに左袒していたとしても、その哲学的思索の偉大さには、なんら瑕疵をもたらさない。

ニュートンが、どれだけ意地汚い名誉欲をもっていようと、彼の思索はなお、偉大であり続ける。

 

 

かりに、人間の癖を利用して、いや〝つけこんで〟モノを売るのを詐欺だというのならば、

この世の中の、大半の大卒文系は、詐欺師だとおもう。

 

あえて言おう。

「営業」は詐欺である、と。

そして、わたしの将来は「詐欺師」であると。

 

 

どうしようも、ない。

 

 

 

 

 

営業と詐欺のあいだ (幻冬舎新書)

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