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暇半桃花鳥’S LOKA!

露悪趣味で見栄っ張り

銃剣道やってる場合じゃねえ。

笹食ってる場合じゃねえ、ってやつ、わたし好きなんです。

閑話休題

※※※※※※※

アリストテレスは、富の分配を唱えたそうだ。

 

その理由は、

リッチな人がいると、他方のプアーなひとは、腹立たしく思って、決起する。そして、リッチはプアーより数か少ないから、結果、数の多いプアーが勝ち、社会がひっくり返る。そして、また、富貴の二分が生じ、歴史は繰り返す。

だから、アリストテレスは多くの人の富がだいたい中央値に集中している状態を理想とし、決起という冒険をすることない社会を目指した。

というのは、中間層が大半であれば、彼らは自分よりリッチな人とプアーな人が半々であるという推論をすることになり、社会の転覆を考えても、転覆の企ては間尺に合わないと判断するからだ。「うーん、上が50で、下が50.だとすると、ここでぼくよりリッチな奴らを攻撃しても、ぼくよりプアーな50がぼくを襲うことになるんだな。となれば、転覆はギャンブルすぎる。」と中間層みんなが考える。

つまり、中間層は、転覆を割に合わないと判断するため、中間層が増えれば社会が安定する。

だから、富の分配はなされねばならない、と考えたようだ。(たぶん)

 

 

ただ、この理屈でいくと、現代は、まったく富の分配が必要のないことになる。なぜなら、現代は、数の論理ではなく、質の論理で暴力が決まるからだ。器仗の発達は、とうぜんながら、数の論理を霧消させた。どかーん、ばきゅーんには敵わない。

それに、われわれは、やくざさんはいざ知らず、武器をもっていない。

だから、どう考えても、貧しきものによる転覆など、現代ではありえない。

 

われわれの社会は、じつは、いつでも庶民が〝材〟になる可能性を秘めている。有象無象の部品に、個人が個人より大きなサムシング(社会、共同体、国家)のための手段になる世界と隣り合わせなのが、現代社会だとおもう。

この可能性を減らすためにあるのが、法律だ。もう、数では勝ち目のない大多数の庶民を、力(Power、Macht)から守るのが法律だとおもう。

 

だから、法律を、「力ある者」がつかうのは、原理的に間違っている。

 

周知のとおり、だから、憲法は国民より力を有っている国が守るもので、国民のルールを定めたものではない(はずだ)。

 

同様に、すべての法律は、強者ではなく、弱者のためにのみ存在する。

わたしは、そう思う。

 

家庭では親、学校では先生、地域では長(市長、区長)、企業では社長・幹部。かれらが、法律を傘に自分をまもるなど、理屈が通らない。

 

しかし、法律を知っているのは、こういった「力あるもの」なのが現状だ。

 

 

うーん、銃剣道の追加だか明記じゃなくて、義務教育に「法律」を組み込んだらどうだろうか。

ほんとうは、庶民一般にこそ法律が必要なのだから、義務教育であつかっておかないといけないんじゃないの?

まあ、わたしは、法律なんて、全然知らないんですが。無知は罪ですね。

 

うーん。ちがうかな。

 

 

どうしようもない。