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暇半桃花鳥’S LOKA!

露悪趣味で見栄っ張り

「他人を思いやること」は「じぶんのことをかんがえること」からはじまるという逆説。-常識的な人ほど非倫理的な悪人であるという話-

『三太郎の日記』をだしにして、「おもいやること」についてちょっとかんがえてみた。結論は、「差異に定位しつづける思考、これがおもいやりだとおもう」、じぶんじしんのことに耳を澄ませること。ここから、倫理は始まる。「「自分にとって自明なこと」とは何か」、ここからはじまる。」といたってシンプルだった。

 

自分の書いたものを読み直してみると、あんまり『三太郎の日記』で書かれていることと関係ないことに気付いたが、まあ、いろいろ考えてみるきっかけになったことは確か。にしても、教育者と商人と検査官の道徳がまとめて外面的道徳として批判されているのは、おもしろい。どの時代も、教育者のいう「~すべき」(当為)は、その内面を重視するものではなくて、つねに体裁やルールに過ぎなかったのだろう。もちろん、商人や検査官のいう「~すべき」(当為)もだ。

 

十四 内面的道徳

 自分にとつては自明なことでも社會にとつては自明でないことがある。自分にとつて自明なことと、社會にとつて自明でないことと――此の二つが永久に並存して相互に關係しないものならば問題はない。併し社會は社會自らにとつて自明ならぬことは凡て許す可からざることゝ推定する。個人にとつて自明にして、社會にとつて自明ならぬ場合に、個人が自己にとつて自明なる道を進まむとすれば、社會は之に干渉し、社會は之を壓迫する。茲に於いて個人は自明の道を進まむが爲に社會と戰ふ必要を生ずる。自らの爲に云ふ必要なくして、社會の爲に云はなければならぬ必要に逢着する。自分は之に名づけて啓蒙言と云ふ。内面的道徳の説は自分の啓蒙言である。

 

結局、啓蒙なんてのは、個人の内面的道徳にすぎないのだろうか。社会と自分の考えが食い違ったとき、でてくるのが「啓蒙」。そうまさに「自らの爲に云ふ必要なくして、社會の爲に云はなければならぬ必要に逢着する」ときに、啓蒙の必要がある。社会は間違っている、俺が正してやる。

でも、社会と自分のどちらが「蒙」なのか、それがわかることなんて、ほとんどない。ただ、「社会にとって自明なこと」というのは、それに反発する人にも、それを受け入れる人にも、理解できるものである(理解できるから反発するし、理解できるから受け入れる)。この意味で、それは外面的で、客観的なものだ。客観ということばまずいのなら、間主観的といってもよい。

対して、「自分とって自明なこと」は、徹頭徹尾に主観的なことだ。そして、「蒙」を非常識と考えるなら「自分にとって自明なこと」が「蒙」だ。「社会にとって自明なこと」が啓かれた地平にいて、そこから「自分にとって自明なこと」を改めさせるのが啓蒙だ。ほんとうにそうだろうか。

外面的な「社会にとって自明なこと」というのは、個人の主観を粗削りして生まれたものだ。この「社会にとって自明なこと」の形成過程には、なにか陥穽がありやしないか。

そして、外面的な道徳つまり社会にとって自明なことについて、『三太郎の日記』のなかで阿部次郎は、つぎのように述べる。

 
 道徳とは偏に如何に行爲す可きかを教へるものとすれば、換言すれば行爲の規矩準繩を教へるものとすれば、道徳の人生に於ける價値は矮小卑吝である。そは精神的生活の末梢に位する、粗大な、外面的な價値を表示するに過ぎない犬は飯を食ひ、人は飯を食ふ。飯を食ふことは犬と人とを分つに由ない。乞食も兵役に服し、市民も兵役に服する。兵役に服すると兵役に服せざるとは乞食と市民とを分つに由ない、大奸も遜り聖者も遜る。遜ると否とは大奸と聖者とを分つに由ない。飯を食ふことによつて價値を判ずれば犬と人とは價値を等しくする。兵役に服することを以つて價値を判ずれば乞食と市民とは價値を等しくする。遜ることを以つて價値を判ずれば、大奸と聖者とは價値を等しくする。外面的道徳も亦此の如き笑ふ可き價値の標準に過ぎない。天と地との如き相違を有する内的生活は、行爲の外形に於いて往々類似の形式をとる。形式の共通する行爲の外貌は往々天と地との如く相異る内的生活を包藏する。
 内的生活の機微を識るものには、不信の内容にも天より地に至る迄の無限の階級がある。姦淫の内容にも西より東迄の無限の間隔がある。不幸の内容にも山から海迄の無數の高低がある。猶友情の内容にも天より地に至る迄の無限の階級があり、貞操の内容にも西より東迄の無限の間隔があり、孝悌の内容にも山から海迄の無數の高低があると同樣である。外面的道徳は内面生活無限の風光に與らない。豐富なる、多彩なる、陰影と明暗とに饒かなる精神的價値の世界に與らない。そは唯芋蟲の如く栗のイガを知る。そは僞善者の、商人の、法律書生の、教育者の、老人の、檢査官の道徳である。彼はドン・ホアンの罪と雷小僧の罪と、エデイツプスの罪と御酌を汚す老人の罪との高下を知らない。彼等は盜賊の罪と探偵の罪との美醜を知らない。彼等は失敗者の罪と成功者の罪との善惡を知らない。彼等は善人の罪と罪人の罪との眞僞を知らない。

 

おそらく、かれがいいたいのは、「社会にとって自明なことはあまりにひとびとや価値を大雑把に分けるもので、ほんとうはあるはずの違いを見落としてしまう」ということだ。そして、「内面的道徳、つまりじぶんにとって自明なことに目を向けると、社会の地平からは見落としていた高下、美醜、善悪、真偽がみえてくる」ということだ。

「社会にとって自明なこと」は個人の内面を削るがゆえに、当然のことながら、そこからの景色には失われたものがある。

 

 

わたしは、もっとじぶんに目を向けるところから始めていきたい。そのことによって、相手にとっての自分にも内面的道徳があるんじゃなかろうか、とかんがえだすだとおもう。

おもいやりは他人からでなく自分からはじまる。

 

いまの社会が他人への思いやりにかけているならば、それは自分を大切にしていないからだとおもう。他者を思う想像力は、自分を思う想像力から始まる。自分を思うことで他者の内面に思い至る。

しかし、他者の内面を自分が思った時点で、それは、「相手の内面だと自分が思っている」という「自分の思い」に過ぎないから、結局、他者の内面を思うことはどこまでも自分の内面を思い続けることになる。ただ、自分という「自分にとっての相手は相手にとっての自分で、自分にとっての自分は相手にとっての相手」という相互規定的な仕組みゆえに、どうしても自分のことを思えば相手のことを想像してしまう。「自分ってのは、ほかのひとにも成り立っているだよな。すると、相手にも自分があるのかもしれない……」。

もちろん、相手の内面についてほんとうのところはわからないのだが、相手の内面を考えてしまうことがあることだけは、たしかだ。そして、この答えのない問いを考え続けることが、思いやるということで、「自分のことを思うのを止め、結果、相手のことを思うのも止める」ことが、思いやりのない社会ということだ。このような「自分のことも相手のことも思うことのない人」というのは、「社会にとって自明なこと」以外には「自明なこと」など存在しないと考える人だ。つまり、かれらには「自分にとって自明なこと」など存在しない。

「社会にとって自明なことしか存在しない」と考える人は、自らを非倫理的だと示しているのである。「社会にとって自明なことしか存在しない」と考えるということは、「自分は常識人である」とかんがえることだ。だれにだって必ず非常識なところはある。常識とは、ほんとうは切り詰めることなどできない諸個人を擬制的に捨象したところに存立するからだ。非常識な部分は捨象過程で切り捨てられた部分のことで、「自分にとって自明なこと」だ。

ひとが、人類ではなく、食って寝て生きる個人である限り、完全な常識人になどなれない。マジョリティに甘んずるものに倫理はない。常識人ほど残酷で非倫理的な者などいない。

 

人を殺したいと思ったことは本当にないか。

ナイフが頸動脈を捌き奔出する血潮をみたいと思ったことは本当にないか。

物なんて盗んでしまえばいいと思ったことは本当にないか。

少年少女をヤッちまいたいと思ったことは本当にないか。

ものを知らない人を痛罵してしまいたい思ったことは本当にないか。

ドラッグを使ってみたいと思ったことは本当にないか。

社会に貢献しない人なんて切り刻んでしまいたちと思ったことは本当にないか。

裕福な人を孤島に放ってしまいたいと思ったことは本当にないか。

建物に火を放って焼け苦しむ人々を見てみたいと思ったことは本当にないか。

死体の性器に自らの性器を重ねたいと思ったことは本当にないか。

人を水に沈めて溺死するさまをみたいと思ったことは本当にないか。

自殺するくらいなら人を仰山殺してから死にたいと思ったことは本当にないか。

人間はどこまで引っ張ればちぎれるのか知りたいと思ったことは本当にないか。

 

 

こんなに極端でなくてもよい。だれの内面にも「社会にとって自明なこと」と「自分にとって自明なこと」の食い違いがあるはずだ。「内的生活」には「無限の階級」があるのだから。内的生活は、外的な規矩よりも濃やかで、霧雨のようにしっとりとしている。

何か自分に非常識なところはないか。

え?「じぶんって常識的だよなあ」って?じゃあ、あなたはきっと、残忍で非倫理的な人なんだとおもう。 

 

もういちど。他者を思う想像力は、自分を思う想像力から始まる。「他人を思いやる社会」はとりもなおさず「自分の内面の声に耳を澄ます社会」だとわたしはおもう

「自分にとって自明なこと」と「社会にとって自明なこと」をかんがえる。そこに存する差異から、〈絶対的な隔たりの先にある他者〉を思いやることがはじまる。理解できなくとも、いや、理解できないからこそ、思いやることができる。

自分と社会のあいだに必ずある違いをみつめることで、他者と自分と社会との違いをおもうことができる。「わたしと社会は違う。だとすると、あのひともほんとうは、わたしとも違うし、社会とも違うのかもしれない。わたしと、あのひとと、しゃかいは、ちがうのかもしれない」とおもうことになる。

他者も社会も理解はできない。しかし、その違いに思いをはせることはできる。これが思いやりだとわたしはおもう。差異に定位しつづける思考、これがおもいやりだとおもう。

 

社会のことでなく、学校のことでもなく、日本国のことでもなく、家族のことでもなく、世界のことでもなく、会社のことでもなく、じぶんじしんのことに耳を澄ませること。ここから、倫理は始まる。「「自分にとって自明なこと」とは何か」、ここからはじまる。

そう、まさに「修身斉家治国平天下」という儒教倫理(?でしたっけこれ。朱子学って言ったほうがいいのかな。でも朱熹儒学者だったはずだし。うーん。)のいうとおりだ。まずは、じぶんのことから。そのためには、格物致知とか、きっといろいろな方法がある(でも、竹を見続けてぶったおれるとかハードなことはおすすめしない。)。

 

 

わたしは、もっともっと自分のことを考えていきたい。