暇半桃花鳥’S LOKA!

露悪趣味で見栄っ張り

就活のことを考えることは、じぶんのこれからを考えることで、それはつまり、わたしの生の畳み方を考えることで、結局、死について考えることで、就活は終活で、でも死なんてわからなくて、ただただこわい。

最近自分の死ばかり考えてしまう。

 

 

就活について、だれもが話すのが、

「じぶんらしくはたらくこと」

「じぶんの特性を生かすこと」

「自己分析すること」

「企業研究をすること」

みたいなことばっかりだ。うんざりだ。

ほんとうにみんながかんがえていることは、そんなことなのか?

なにか、目をそらしてはいないのか。

 

わたしは、こうおもってしまう。

「はたらいて、はたらいて、はたらいて、じゃあ、その先は?」

 

べつに、有名な、あの「メキシコ人の漁師」のはなしが、いまのわたしの考え事ではない。

 

なぜ誰もが、就活と終活を合わせて語らないのか。なぜなのか。

 

この世界の、さまざまな情報の、感覚の、この世界のありとあらゆるが集まる、この輻輳点であるわたしにとって、

ほんとうに関心のあることは、ただ、

わたしは死んでしまう

ということだけな気がしてきてしまう。

はたらいた先に、死ぬ。

 

だから、わたしは、はたらくことをかんがえるのがこわい。

キャリアという言葉が怖い。

はたらくことをかんがえることは自分が消えてなくなることをかんがえることだからだ。

キャリアの弥終は、死であり、そこに向けて何かを考えることが、本当の意味で、キャリアをかんがえることに思えるからだ。

はたらいて、昇進して、えらくなって、その先には、とどのつまり、消尽する。

経歴の先には、死があり、そこに向けて人生をかんがえる。 

 

ただ、ただ、それがこわくてこわくてたまらない。

こわくないのだろうか、わたし以外の人は。 

 

 

なぜみんな、はたらくことを、

たのしそうに、であったり、

いやそうに、であったり、

いきがいであるように、であったり、

そんなふうに語れるのだろう。

 

なぜ、面接に落ちて、

自己分析なんて、できるのだろう。

 

分析して、唯一わかるのは、

この先、はたらいていった先に、

ただ、

ただ、

暗くて、

玄くて、

わけがわからなくてうけいれ難いじじつである、

この世界が蝟集する唯一のこのわたしは消えてしまうだろう、って、

ことだけなはずなのに。

 

なぜ、みんな。

 

 

もちろん、動かないと死んでしまうだけなのだが。

 

わたしは、宙づりにされた死の途中で、

ただ、保留された死を

生と呼び、

はたらいていって、生きるために動いて、動いて。

 

動き続けた先の死のことなど、露知らずに、

そうやって、生きていくことが、

幸せなのだろうか。

 

死を考えることは快くないけれど、

それでも、

わたしは、

しょせん、死を先延ばしにしているに過ぎないことを、

かんがえもせず、生きていく。

 

目の前にぶら下げられた死を、

かんがえもせずに生きていくことは、不幸なことに思えるが、

でも、

死を考えることは、

ただ、こわくて、

やっぱり幸せなんかじゃないのかもしれない。

 

 

こわくて、こわくて、こわくて、

どうしようもなく、こわい。

ただ、こわい。

 

どうしようもない。