暇半桃花鳥’S LOKA!

露悪趣味で見栄っ張り

浪人時代、人間関係の切り詰めを行った。

知人からの連絡は全部すっぽかし、3,4年通っていた美容院にはいかず自分で髪を切り、ただ予備校と家を往復していだ。あまり勉強はしなかったようだ(どうしょうもない大学にいて、どうしょうもないわたしで、どうしょうもないことが、どうしょうもなくふくそそぐのは、そういうことなんだろう。)。

今も関係は途切れたままである。中高と、立場的には同窓会の幹事とかを通例果たすような肩書があったのだけど、同窓会はすべてすっぽかした。幹事もやってないし、参加もしていない。

ついでに、成人式にも参加していない(成人式当事者だった年は、間違えて学校に行って「なんか静かだなー」「んー?鍵がかかって校内に入れないゾー?」「今日って何の日だぁ?」「あ、わたしたちの代のための日だったのか」「友達がいないと、こうなるんだなあ。かえろ」と、出塵感あふれる日を過ごした。)。

人間関係をおじゃんにした理由は、今もまだ判然としてはいない。

プライドって理由もあったし、人といるとなんとなくつるんじゃうって理由もあった気がするけど、ぜんぶこじつけなような気もする。

ただ、確実なのは、そのことで、得たものもあるし、perduしたものもあること。

 

 

得たものは、

「無欲さ」かもしれない。

浪人期から、テレビを見なくなったし、人ともあまりかかわらなくなった。

すると、とどまることない個別化・差異化の欲望が必要なくなった。区別する対象が見つからなくなってしまったからだ。比べようがないから比べない。でも、ときたま紅塵の内にまぎれると、あらゆる欲望がぶり返す。発作のように。殷賑な巷間を出て、家に帰るとほっとする。わたしは無欲でありたいと願っているだけなのだろうか?

人間関係から零れ落ちることでわたしが得たのは、「無欲さ」というよりむしろ「無欲さへの志向」だったのかもしれない。人と交わるたびに感じる欠如感や劣等感から逃れたいの一心で、わたしは無欲になりたかったのかもしれない……無欲であることを欲していたのかもしれない。

でも、無欲であることを欲するって?

 わたしにとって「無欲であること」は、何か別のことの言い換えに過ぎなかったのだろうか。「無欲であること」は目的ではなく手段だったのではないだろうか。最初は手段であったものがいつのまにか目的になることで、「無欲を欲する」という矛盾に陥ったのかもしれない。

「無欲」ってなんんだろうか。

わたしにとってそれは、

示差的体系のなかで、雑揉する欲望のラットレースに併呑されないために、

選び出した手段だったのかもしれない。

 

 

失ったものは、

「みずみずしさ」かもしれない。

わたしは、

茨木のり子さんのことば(「自分の感受性くらい」)を借りれば、

「ぱさぱさに乾いてゆく心に水をやるのをおこたった」のだと思う。

新しさにふれること、未知に遭逢すること、旧套を補綴することを、おこたってきたのだと思う。

わたしを駆り立てるのは、いつのまにか、好奇心ではなくて、死への恐怖、不快感への恐怖、嫌なことへの恐怖になっていた。

澎湃する恐怖だけがわたしの生を亢進させる。恐怖のおかげで生きているのかもしれない。この恐怖は、アルコールみたいなもので、いくら摂取しても渇きは満たされることはなく、むしろどんどん脱水していってしまうとような、そういうものだ。

行為としては水やりなのだが、与えていたのは脱水剤だった。

 

 

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい