読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

暇半桃花鳥’S LOKA!

露悪趣味で見栄っ張り

〝人〟生を諦める勇気がほしい

書肆で、「諦める技術」みたいな本、

「あきらめるでうまくいく10の法則」みたいな本を、

ひと頃、目にしていた。今もあるのだろうか。

 

でも、なかなか何かを諦めるってのは難しくて、

諦めようとするわたしの空回りな勇進を、-そんなわたしをしってかしらずか-

のべつ幕無く壅塞するhurdleが、

現前する。

 

わたしは

〝人〟生を諦める勇気が

ほしい。

 

〝人〟並みではなく、生のままに。

ただ、生のまま、従容として、荏苒と、生きていきたい。

 

ただ、生のままに。

末期的なこの人生というちいさくささやかな矛盾

さいきん、輪廻が苦しみであるということを体諒しつつある。

 

「なんのために?」「いい高校に入るために」

「なんのために?」「いい大学に入るために」

「なんのために?」「いい企業に入るために」

「(フラッシュ!)」「なんのために?」

「なんのために?」「いい家に住むために」

「なんのために?」「いい結婚をするために」

「なんのために?」「こどもと配偶者とでいい家庭をつくるために」

「(ミラクル!)」「誰のために?」

「なんのために?」「孫と遊ぶために」

「なんのために?」「大病した時のために」

「なんのために?」「死ぬためさ」

「(ストロング!)」「この力はあるだろう?」

「なら、いま死んでもいいじゃないの?」「……死ぬのはこわいから今は死ねない」

「目的は達成できるよ?」「過程が大事」

「ウルトラの星がまたたくとき」「あたらしい光が」

「その過程ってのは死を先延ばしにしているだけだよ?」「引き伸ばし方にもいいやり方とわるいやり方がある」

「いいやりかたってのは?」「じぶんが納得できるかどうか」

「納得ってのは、いろいろあった過去の可能性から目を背け、「これしかなかった。これだけだった。」と偽ることだよ?」「納得とは、これからの可能性を作り出し、「こうしてきたのはこのためだったんだ」と過去を肯定していくことだ」

「おとずれぬ」「おとずれる」

「「WOWWOWダイナ!」」

   

ってな感じ。

ぼくは、幸せは納得に集約されるような気がしたんだ。でも、「納得」ってのがどうもうさん臭くて、それはほとんど自己欺瞞に思える。「ああなるしかなかったよ」「あれで満足だよ」と、内にある消えない痕跡、違和感を塗り固めることなんじゃないのか、納得って。

「よくやったよ。結婚もした、子供も大学まで行かせた。孫の顔も見た。」この一言で、じぶんの人生を納得できるのか。

「よくやったよ。60までは生きたし、やりたいこともできる限りやった。思い残すことはない。」。納得できているのか。

「どうせ死ぬんだし」。この一言で、ほんとうに自分の人生を納得できるのか。

 

ぼくは、どうしようもなく死にたくないし、どうしようもなく我儘だし、どうしようもなく強欲だし、どうしようもなく物分かりが悪い。

ぜんぜん納得できそうにないんだ。

 

結婚、家庭、子供、孫。それで納得か?それはほんとうにじぶんと関係のあることなのか。

やりたいことをそれなりにできれば納得か?やりたくないことだらけの人生じゃなかったか?

みんな死ぬから死んでもいいのか。それで納得できるのか。

 

人間は死ぬ。

ぼくは人間だ。

でもなんで僕は死ななければならないんだ。

 

これが、わたしの死に関する三段論法なんじゃないのか。

 

ああ、こんなことを考えていても、なんにもならない。

末期的思考様態だ。

末期的なこの人生だ。

 

この人生いがいに、ぼくには人生はないけれども、

もうこの人生は、

末期的なんだ。

はじめてのことだけれども、

いまここが、末期なんじゃないかって思うんだ。

末期的なこの人生というちいさくささやかな矛盾を

ぼくはいきている。

この苦しみは、もう、末期的なんだ。いきていることの苦しみは末期的なんだ。次またこの苦しみを味わうのは、もう嫌なんだ。これが、末期であらまほしきことである。

 

どうしようも、ない。

ひびわれたひび20170526

承認と無理解のこうこう

共感と無理解のこうこう

うーん。

共感と無理解のてんびん

むーぅ。

共感と無理解のちぎり

承認と無理解のちぎり

ん!

承認と無理解の杠秤

共感と無理解の杠秤

ぬぬぬ。


 

わるいひと、スーツを着ている。 逆は偽なり。

 


 

最近夢を見るのが楽しい。

末期的だなこの人生これ以外にはありはしないのだけれども

短歌(57577)になってら。

末期的なこの人生というちいさくささやかな矛盾

 


 

 いつからか一人称が「俺」から「僕」になっていて、ときに「私」になっていた

 


パソコンとかスマホみたいな電子機器って、表示されている内容でなくて、発せられている光自体に中毒作用があるような気がしてならない。

ぼくは向光性。

機嫌の悪い人は嫌いだ-体調不良と不機嫌のアンハッピーセットについて

機嫌の悪いときというのは、なんらかのよくないことが当人に生じている場合である。そのなかでも代表的なのは、体調不良というやつ。そして、体調不良と不機嫌がうちに雑糅してる人間ほど、手に負えず、わたしが嫌いな類型もいない。いや、わたしが嫌いな人間類型は、ほかにも、腐るほどいるか……。

 

まず、ある人が体調不良の時点で、彼を周匝せる人々はこんな風に思う。「だいじょうぶかしらん」「どこがわるいんだろう」「しずかにしてよう」などなど。いわゆる「気を遣う」のだ。体調不良に起因する気遣いを「えーちょー負担なんですけどー。たいちょうふりょー?なめんなってはなしぃ」と公言するひとは鮮少だろうし、また、わたしなどは〈負担だ〉と感じないように自己暗示をかけているのだろう特に苦にならない。わたしとは違った理由であれ、なんであれ、体調不良の人がいるくらいなんともないタイプの人も多かろう、とモウ。というか、体調不良なんてのは、半ば防遏可能で半ば防遏不可能な事象だから、それを指弾するのは半ば台風による被害を毀謗ようなもので、パッパラパーだ。

 

不機嫌になること。これは、うっとうしい。周囲のわたしたちに至らぬ点があるのかもしれない、いやあるんだろう。だが、不機嫌になられると、こちらの作業や日常にごまかし切れない痛痒が生じる。今一歩さらに気遣って、でも相手方は不機嫌のままで、またさらに気遣う。

 

体調不良と不機嫌の、アンハッピーセット。こいつは、勘弁。台風の被害を謗りたくなる。「ちゃんと管理・整備をしていなかったから、こんなことになったんちゃいますか!?」。惻隠の情が雲を霞と算を乱して蜘蛛の子を散らす。〝含む所〟がムクムクとわがうちに群がり出す。豪蕩たる宸襟ではないチープなわが心は、たやすく黒に染まる。もちろん、アンハッピーセットなひとのまえでは、こんなことは噯気に出せない。でも、鍍金が剥げて、口吻を漏らしているときもあるだろう。言葉の端々に〈あーうっとし〉って滲漏しているんだろう。するとわたしの不満に気付いた相手方は弥まして不機嫌になって、アンハッピーセットのインフレが始まる。こうなると、もう、不干渉戦略以外になすすべがない。

 

 

不機嫌なら蟄居しよう。

 

ひたすら、機嫌がよくなるまで、植物になろう。

 

不機嫌な動物より、不機嫌な植物。

 

体調が悪いなら、さっさと人間をやめよう。不機嫌になる前に、人の間から抜け出よう。ただ、水と食だけを要求しよう。それくらいなら、多くの人が手を貸してくれるだろうから。

移動する朝

朝がうごく。

昨日も今日も明日も、朝がうごく。

朝がとどける。

昨日も今日も明日も、朝が今日をとどける。

朝がはじめる。

昨日も今日も明日も、朝がぼくらの日常をはじめる。

朝が燃える。

昨日も今日も明日も、朝が昼へと燃える。

朝が取り戻す。

昨日も今日も明日も、朝があかね色を取り戻す。

朝が忘れる。

昨日も今日も明日も、朝が自分を忘れる。

朝が沈潜する。

昨日も今日も明日も、朝が潜む。

朝が蕩揺る。

昨日も今日も明日も、朝が深更と午のあいだをゆれる。

朝はうごく。

昨日も今日も明日も、朝はうごく。

朝は、いつもうごいている。

朝は、いまも移動する。

移動する朝は、初めての朝と引き続く朝と最後の朝になる。

ぼくらはみんな死んでゆく♪生きているからつらいんだ♪

ぼくらはみんな死んでゆく♪

生きているからつらいんだ♪

手のひらを太陽に

すかしてみれば。

わかることは、

僕は死ぬよ。

ミミズだってオケラだって
アメンボだって
みんなみんな生きているんだ
死にゆくんだ。

2017年4月27日(木曜)

わたしは、けっしてフェミニストではない。

動もすると、フェミニズムっぽく受け取られない以下の対談だが、わたしはそうは思わない。

このふたりが戦っているいるのは、湯浅誠さんの言う「岩盤」だ。

そして、わたしは、そういった「岩盤」を崩していきたいと考えている。

大略彼女らの主張に賛成だが(当然納得できない部分もある)、わけても肯った部分を掲載し、備忘とする。

 


竹信 それが変わり始めたのが2005年から2006年のころなの。なぜか分かります? なぜ風向きが変わったのか。それは、自分の娘や息子たちが非正規になっていくことに新聞社のエラい人たちが気付き始めたからなのね。妻や娘息子を養える世帯賃金を確保するために、非正規への分配問題などにはかかわりたくないと考えていたら、なんと、自分はもうすぐ定年退職なんですよ。後はもう年金しかないのに、娘や息子は相変わらず年収200万円の非正規でしょ。「あっ、これはやばいことなのかもしれない」とようやく気付くわけ。

 

 深澤 しかも、力をもっている人たちばかりでなく、弱い立場の人たちもしらないうちにその言葉にからめとられる。だから、社会の上からも下からも繰り返し発信されるようになるのが、言葉の誤用の怖さだと思うんですよね。
 竹信 社会的に力をもっている既得権益層が、弱い立場にある人たちにも受け入れやすいように言葉をアレンジして、それを強力に流通させる。そうして上の方からも、下の方からも、捻じ曲げられた言葉が飛んで来るんですよね。非常に巧妙な作戦ですよね。私の経験からいうと、2000年くらいに流行ったワークシェアリングという言葉でも苦い思いをしました。

 

深澤 こうした誰でも陥りがちな昔は良かった幻想と、男女の役割幻想は強固なんですよね。
 竹信 そうですね。それは「成功し過ぎた成功モデル」なんですね。高度経済成長で経済が最も成功していた時代は、男女の役割分業をばっちりやっていたわけですよね。育児や介護も含め、家事はすべて女性が引き受け、男性はめいっぱい長時間働いて、家族のためにお金を持って帰る。
 そうやって、福祉にかける税金を節約し、家事の合間の女性パートを極端な低賃金と男性の長時間労働で労働時間あたりの賃金を抑え込んで輸出競争力を上げると輸出が進んで、その成長の成果が賃金に跳ね返り、税金も安くなる、という、それが良いモデルだという刷り込みができてしまった。そんな上の世代と、もはやその経済構造ではもたなくなった現役層には断層といえるほどの断絶があります。
 草食男子が出てくる時代って、低成長に入っている、そこで楽しく過ごすためには、男性もがつがつしないで、男女がほどほどに働いて、自分の生活費くらいは稼ぎながら自然体で生きていくことが必要です。それをかたくなに変えさせまい、転換させまいという堅固な思い込みが根強い。これが日本の転換をすごく妨げていると、私は思います。
 ヨーロッパでは男女の分業をやめて共働きが普通になっていったのに、なぜ日本では変わらないのかというと、やはり、この成功し過ぎたイメージが壁になり、あのパターンを繰り返せばまた「成長」がやってくるという意識が強固に焼き付いているのではないかと思う。変化を促すような草食男子も家事ハラも、ことごとく、そのイメージに合わせて意味合いを変えられてしまう社会。これはもう、呪いと言っていいほどで。
 深澤 そうですね。高度経済成長期やバブル期は成功したのは経済モデルだけだと思います。

 あのころは人情があったというようなことを言う人もいますが、それは幻想でしょう。だいたい電車の中とかも、よっぽど昔の方が荒れていた。今の方がずっと社会秩序は整っていると思います。

[3]「昔は良かった」幻想から脱却せよ - 竹信三恵子、深澤真紀|WEBRONZA - 朝日新聞社

エッセイ > 竹信三恵子×深澤真紀 「家事ハラ炎上!」爆走トーク(3)「昔は良かった」幻想から脱却せよ | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

 

 

深澤 もちろん違うことでも怒ってるは思いますよ。竹信さんとか私の家は適当だと思いますが(笑)、多くの働く女性たちはびっくりするぐらい忙しいのに、ちゃんとしているわけですよね。女性誌の影響も大きくて、「丁寧な暮らしを」とか、「夫婦で尊敬し合って、高め合って」とか、そういうコピーに支配されてしまう。
竹信 抑圧的ですよね。
深澤 夫婦なんか高め合わなくていいでですよ(笑)。

 

 

 

 

 

人付き合いが下手すぎて、知人を6時間も拘束してしまったわたし

お題「カラオケでの思い出・失敗談」

 

わたしは カラオケに行くときには、一人カラオケで、かつ、大体長い時間歌うのが恒例だ。

その「自分ルール」を他人に押し付けてしまったことがある。

知人にカラオケに誘われて、6時間近く二人で歌った。いや、ほんと、申し訳ないことをしたと思っている。

 

こういうところが、わたしに友人がいない理由なんだろうな。ふとしたときに、自分勝手になってしまう。肝心な時に、注意をおこたってしまう。

 

どうしようも、ない。

安藤さんの研究で、こんな結果が出ている。


「遺伝か環境か」ではない。「遺伝も環境も」なのだ。 (写真クリックで拡大)
「たとえば、同じ遺伝的素養があっても、環境によって、現実のものとして発現する場合としない場合があるんです。問題行動の遺伝的素養は、しつけが厳しすぎたり一貫していない家庭のほうが強く出る傾向があり、しつけが厳しすぎず、一貫している家庭ではあらわれにくい。また、読み聞かせをした子の問題解決力が高くなったり、無理に何かをさせず自由にさせていた子のほうが、知的能力が高くなるという結果も出ています」

第4回 ドッキリ企画!双子を内緒で交換したら | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 

朝日新聞の「フォーラム 「忖度」」に雑文を送ったら、公開された。

朝日新聞のフォーラム忖度に、雑文を送った。どうやら、差別表現等の問題はないと判断され、掲載された。

といっても、「難しい問題だ」とかいう「へ?」っていう意見も通っちゃうくらいだから、まあ、なんともいえないんだけどね。

 

個人的には、「忖度」について、ポイントを押さえて、そこそこ上手くまとめることができた印象(自画自賛はじぶんの能力を毀つんだよなあ。あーあ、やっちゃった。)。

www.asahi.com

元のページは、いずれなくなるだろうから。ここに、再掲。

 

截然と公私を画することはできないかもしれないが、公的なことがらに属すのであれば、忖度は絶対にあってはならない。というのは、「公」は透明な情報公開を成立の条件とするためだ。これは、情報・人を問はず同様で、文書ならば全て公開し、公人ならばかれの一挙手一投足を公開する。公人には、それくらいの枷があって然るべきだ。
上流階級バイアスという心理学的事実がある。「社会的地位が高い」と自己規定するひとほど非道徳的である、という事実。この事実を鑑みるに、公人にはいくら枷があっても足りないと思うのだ。
変化する社会に法律は対処できていない。民主主義のために、公的なことがらはどこまでも透明にしなければならない。(文:暇半桃花鳥)

 

 

公/私でわける、って論点は、当然だと思ったんだけど、どうも、ほかにはなさそう(全部読んでないからわかんないけど。)。

たぶん、「李下に冠を正さず」とか「瓜田に履を納れず」とかまあ、つまり「瓜田李下」みたいな、権力者(君子)にもともめられる態度みたいな話を知らない人が多いちゃうんかな。まあ、わたしも、ぜんぜん故事成語とか、しらんけど。

あっ、そういや、なんか『故事成語でわかる経済学のキーワード 』みたいな本が中公新書で昔あったなあ。買ってみようかしら。閑話休題

この公/私の区別をしないで、

「忖度はあってあたりまえです」とか

「自然なことで、それなしには、日常生活ができません」とか

いうのは、ナンセンスだとおもった。